江藤淳『昭和の文人』(by 高杉公望)                           目次ページ戻る

 

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 江藤淳『昭和の文人』(新潮文庫、2000年)ははじめ、文芸雑誌の『新潮』に、1985(昭和60)年1月に連載がはじめられ、1989(平成元)年5月に完結し、同年7月に新潮社から刊行されたものだそうである。このような本にまるまる五年間も費やすとは、文芸評論家とは随分と気楽な稼業である。

 堀辰雄の養父に対する態度を、江藤淳は人倫にもとると批判している。しかし、それはいささか奇妙な印象を与えるものである。

 そこにみられるのは、下町の庶民の生活感性に対する蔑視と無理解ではないのか。

 たとえば、堀辰雄の養父に対する無心(=金送れ)のハガキがため口で書かれていることに対して、江藤は頭から、主人が下男に対するようだと決めつけている。しかし、読みようによっては、江藤が自明視している山の手的におつにすました儒教倫理とはまったく無縁な、下町の、それも花札賭博で夫婦ともにしょっ引かれたこともあるといった侠客気分のある彫金職人の家庭での、馴れ馴れしい言葉遣いのようにも読めなくはない。

 しかも、江藤は、彫金(ちょうきん)に「ほりもの」というルビをふっているが、これは現行の『広辞苑』にはのっていない、いちおう特殊といってよい読ませ方である。「彫物(ホリモノ)師」といえば刺青職人を指すことが多い。江藤にとってはまるで、花札賭博でしょっ引かれるような「ホリモノ」職人などは、裁判所書記という明治の下級官員を実父とする養子・堀辰雄にたいしては、下男のように這い蹲って当然だということが、自明のことのように固定観念としてあることを前提として読まないと、議論の進め方についてゆくのは難しい評論である。

 堀辰雄が、侠客気分をもった養父にたいして愛着の念が深く、実父かどうかなどは判然とさせたくない、といった微妙な気分のなかに、幸福感に浸っている幼少年期の描き方に対して、江藤の読解の仕方は、まるで見当外れで、無理矢理なものであるとしか思えなかった。とはいえ、私は、若き日の江藤淳のように堀辰雄の読者だったこともないので、若き日と、それからこの評論を書くにあたって繰り返し全集を隈無く読んだに違いない江藤の読み方を批判する資格はないのだが、どうみても無理な読み方にしか思えないのである。

 しかし、とにかく、江藤の眼には、「ホリモノ」職人の養父などは、官員を実父とする堀辰雄にとっては下男同様でアルベキなのであり、そういう家庭環境に育ったことは、堀辰雄にとっては恥辱として自覚されなければ、江藤には許し難いものとしてあったのである。それはあくまでも堀辰雄自身のものではなく、江藤淳による、下男同様の「ホリモノ」職人を養い親とする堀辰雄が感じなければナラナイとされる「人倫」(人の道)なのであった。

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 『昭和の文人』の前半部分では、中野重治をとりあげていた。中野重治は『五勺の酒』で、昭和天皇が皇太子時代にイギリスに行ったときの、イギリス人画家に描かれたその姿が、「まるであれだ……」、その「あれ」がなんであるかは心の中でも言葉にしなかった、というその「焼けるような恥ずかしさ、情なさ」について書いている。江藤は、そこに中野重治の民族意識をみてとって、共産党中央委員となった中野重治との間に、「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」という昭和の文人のあり様を指摘している。

 『昭和の文人』の後半部分では、堀辰雄を取りあげているのだが、江藤は、堀辰雄に対しても、中野重治の『五勺の酒』を引き合いに出して次のようにいう。

 「おそらく、堀辰雄の内部では、中野重治のそれに優るとも劣らないその『あれ』に対する『焼けるような恥ずかしさ、情なさ』がうずきつづけていた。」(新潮文庫版、p.327)

 むろん、このような感覚は、日本人ないしアジア人なら誰でもがもつであろう感覚であるから、それ自体は堀辰雄がもっていたと決めつけても間違いとはなりえないだろう。しかし、そのことと、堀辰雄の下町出自の問題とを、江藤は、臆面もなくすり替えてみせるのである。

 つまり、江藤は、江藤がさげすんでやまない下町の出自であるということを、自明のごとくに堀辰雄も恥じていたはずだとしてその気持ちを「代弁」してみせたうえで、しかも、その恥辱は、同時に、西洋人に対する日本人としての劣等感だったのだ、というようにすり替えを行っている。

 つまり、江藤によると、堀辰雄は下町出身であることに「焼けるような恥ずかしさ、情なさ」を感じているベキであった。感じていなければならなかった。それこそが江藤の考える人倫(人の道)というものだからだ。だからこそ、堀辰雄は現実逃避にかられざるをえず、養父と実父の問題を曖昧にし、そこから、自分は誰の子でもない「任意の子」になりすまし、国籍不明の「架空の人工的空間のなかに」逃避したのだ、とするのである。むろん、養父と実父の問題を曖昧にすることが、自分自身を「あれ」ではない国籍不明の「任意の子」とし、「架空の人工的空間」へと逃避することを可能にする、というのは、江藤自身の頭の中で接ぎ木に接ぎ木をかさねられた仮構の論理にすぎない。

 ここにみられるのは、江藤淳という男の、下町庶民の階層に対するあからさまな蔑視と、にもかかわらず、下町庶民の階層としての問題を、西洋対日本という民族主義の問題に無意識のうちに変換してしまうという論理性の、まさに日本人的に「あれ」なところであるというほかはない。

 日本では、江藤淳程度の知能が保守派の代表的な論客だったそうである。欧米では、急進主義やマルクス主義の体系を内在的に喰い破ったところから、古典的保守主義(ヒューム、バーク等々)や新保守主義(ベル、アレント等々)が登場してきたのであった。そこには、読むものをして慄然とさせるほどの、厳しい孤高の知性が研ぎ澄まされている。他方、それに対して、この日本では、マルクス主義的な知的体系のヘビーさを前にして、門前であっさりと引き返してきたものたちが保守派を僭称しているにすぎないかのようである。

 日本では、左翼もひどいが保守派もひどいわけである。たまたま、ソ連・東欧が崩壊すれば、左翼のバカさ加減が際立ち、アメリカが暴走したり日本経済が行き詰まれば、保守派もたんなる無能にすぎないことが露呈するというにすぎない。そこにこそ、中野重治から江藤が抽出した、「あれ」な日本人の「焼けるような恥ずかしさ、情なさ」が露呈している。(2003年8月28日)

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